瞑想法ってなぜそんなに複絶なの?

概要

スピの世界では定番の瞑想法。

数多くのスピマスターがこれぞ正しい瞑想法として紹介している。

私もいくつか瞑想法を試してみたが、才能がないらしく、いい加減な取り組みもあってモノにはならなかった。

そんな私が言えることではないが、スピでいう(新興宗教も含む)瞑想法への素朴な疑問を記す。

現状

多くの瞑想法はおしなべて複雑であることが共通している。

おそらく私が知らない瞑想法もそうだと推測する。

息の仕方、座法、マントラ等々、あるいは道具まで必要なものもある。

もっとも、複雑でテクニカルであればあるほどカッコイイし本物らしいので信用してしまう。

しかし、本ブログを読むほとんどの読者がその瞑想法で何か変化があった人はいないと思う。

稀に異常な体験をする人も実際にいるが、異常な体験により悟りに至る人は100%いない。

むしろ、精神に異常をきたす場合が多いだろう。

事実

そもそも、人間として生まれ悟りを得るために瞑想は必要だと思う反面、なぜ種々多用な瞑想法が氾濫し、複雑なことをしないといけないのだろうか?

もし、何らかの高尚な意識が人間を悟らせるようと思っているのならば、なぜもっとシンプルな瞑想法にならないのか?もっと言えば、瞑想なぞしなくても悟らせることをしなかったのか?

というのが、疑問なのである。

瞑想で最も現在信頼できるのはインドのヨーガだと思っているが、それでもヨーガの瞑想法はそれなりに複雑で難しい。

一般の人が独学で実践できるような内容ではない。(実際、ヨーガは独学で瞑想は危険だからやるなといも言っているが)

仮説

瞑想を否定してはいない。

むしろ、人間というものを超えるためには必須であり唯一の方法だと思っている。

ゴーダマ仏陀も瞑想によって悟りに至った。

しかし、現在の仏典に記されている瞑想法は本当にゴーダマ仏陀が実践したものなのだろうか?

何しろ、宗派によって瞑想法が全然違うこと自体が、既に本来のゴーダマ仏陀が実践した瞑想法が失われている何よりの証拠だ。

真の瞑想法であれば、1つの手法に集約するか多くの共通点を持っていなければならない。

したがって、残念ながら現代は既に正しい瞑想法など失われた時代であり、スピの瞑想法はスピマスターが独自に編み出した単なる独善的な方法に過ぎないのだ。

つまり何の効果も安全性の保障もないと認識した方がよい。

自分の瞑想法が正しいから信じろという巷の瞑想法は単なる押し売りにすぎない。

いつか、正しい瞑想法が世に出るときはそれを十分に証明することができる人に限られるだろう。

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