偶像崇拝は誰にもある

概要

世界宗教の中では、偶像崇拝を禁じているものがあることは周知の事実だ。

日本人の場合はほとんどの人が「私は、作り物の像を神や神聖なものとしては認めていないよ」と思っていると思う。

しかし、それは大きな錯覚、思い違いである。

人は、偶像崇拝というものからそう簡単には抜け出せない現実がある。

現状

道の傍らにあるお地蔵様から大きな神社や仏閣にある様々な像に至るまで、私たち日本社会には数多くの偶像に囲まれている。

そして、だれもそれらの偶像を単なる石や木の塊とは思っていないだろう。

もし、単なる物体として思えるならばそれらの像を破壊したり、壊すことができるか自分に問うてみたらわかる。

何か祟りがあったり、悪いことが起こるような気がするはずだ。

それは、潜在的に偶像をある種の霊的な実態として見ている証拠なのだ。

神棚や御守、お札ですら同じである。実態は木材や紙だが粗末には扱えないはずだ。

このように、文化とも言えるかも知れないが、それほどまでに偶像に神聖なものが込められているという認識は幼いときから植え付けられた払拭できないほど強烈な洗脳と言えるだろう。

事実

人は、目に見えないものを神秘なものとして崇める一方で、やはりこの世的に目に見えるものを何らかの神秘なものと結び付けられずにはいられない宿命的なものを感じる。

例えば菩薩様の石造を見れば、何か手を合わせてしまいたくなるのが多くの日本人なのだ。

このような偶像崇拝の心理的ベースがあるために、スピリチュアルの世界でもご神体なるものを容易に信じてしまう。

水晶などに霊的なパワーが宿るという説は多くある。

実は、私も一時水晶パワーを信じて、持ち歩いていたことがある(恥)

仮説

これまでは、人の心理面からのお話であった。

それとは無関係に、実際にモノに何か霊や未知のエネルギーが宿ることはあるのだろうか?

意外と思うかも知れないが、結論的には個人的な経験からあると思う。

だが、それが正確に何なのかが分からない未知のものである限り、警戒すべきである。

あくまで、人が直接どんなものが宿っているのか、込められているのかを識別できない限り偶像はもちろんのこと、そうしたツールやモノに執着しないことが肝要であると思う。

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