概要
スピリチュアルは、ゴーダマ仏陀の教えと全く違うことを認識しているだろうか?
スピは基本的に宗教の仲間というか、延長線上にあるというイメージが強いのではないだろうか?
本記事は、スピとゴーダマ仏陀の教えと根本的に異なることを説明する。
現状
日本の仏教は、檀家を持ち冠婚葬祭を司る大乗仏教が一般的だ。
各宗派のお寺のお坊さんは一応法話という形で説法をするが、正直まともにその話を聞く人はいないだろう。
日本人は仏教国とはいえ、日常生活とは完全に切り離された形骸化されたものになっている。
しかし、昨今は坊さんの中でも、私たちの日常の悩みに寄りそうような話をする人がいる。
書籍なども出すその活動は、スピリチュアルの範疇に入るのではないかと思う。
そうした、お坊さんを尊敬するが、ゴーダマ仏陀の基本的な思想を出さず、この世の幸せについて語るので、希望を与える内容のものが多い。
事実
ゴーダマ仏陀の教えの基本は、この世は”苦”だと喝破していることだ。
これは、本当なら相当なショックを受けるはずの内容なのだ。
この世に、楽しいことや幸せなど無いと言っているのだ。
まず生まれること自体(あるいは生きること?かも知れない)が”苦”だというのだ。
つまり、この世に生まれ生きていくこと自体が苦しみなのだ。
確かに、呼吸は苦しいから空気を吸い、苦しいから息を吐く。
空腹で苦しいから、労役して食を求め、食べ過ぎるとお腹が一杯になって苦しくなる。
全人類は、苦しみの世界で生きているのだ。
そして、必ず、老いて、病気もしながら、確実に死に至る。
こんな世界のどこがいいのか?
早く、この世とオサラバして彼岸に至ろうというのがゴーダマ仏陀の教えなのだ。
つまり、この世の利益や楽しみや幸せなどを求めたり、得る発想がそもそもないのだ。
それに対して、スピリチュアルはこの世の利益や幸せを得るための手段や方法論を説く。
全く相反するものだということだ。
仮説
普通の感覚であれば、ゴーダマ仏陀の教えはそう簡単には理解できないものだ。
この世を否定し彼岸を肯定しているのだから。
しかし、私たちは彼岸が何かを知らない。
だから、この世の幸せが大事になってしまう。
それが、欲望であり執着であり、それを満足させるというのがスピなのだ。
一般の私たちに彼岸を認識することは難しいしほぼ不可能である。
それを体験的に知ることができるのが、ゴーダマ仏陀やインドの聖者たちに限られるのだ。
いわゆる悟りの境地に達するしかないようである。
このように、私たちがゴーダマ仏陀の教えより、スピに魅力を感じてしまうのは無理もない。
しかし、スピで幸せになった人たちはいるのだろうか?
少なくとも私はそうではなかった。
本当に、この世はむずかしい世界だと思う。
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