概要
本ブログではスピリチュアルには関心を持たないよう勧めている。
しかしなぜ私たちは、この世の現実だけでは満足できずに何か未知なるもの(特に精神的な何か)を求める心理が働くのだろうか?
それもいつの時代も、多くの人々が。
何か深い意味があるのかも知れない。
現状
人がスピに関心をもつ心理は人類と宗教との関わる動悸とよく似ている。
実際に現実に物があり、身体があって私たちは生きている。
基本的に五感意外のことは認識しないし、五感をもとに世界を認識している。
それにも関わらず、人は五感で認識できない神秘的なものを求める。
そこには、この世が根本的に何かが足りない、満足できないという意識しないが根深いものがあるからだろう。
そして、人は何か不完全なものであり、より完璧な存在があるように思えてならないからこそ、それを満足させるような虚しい世界を示すと人は容易に信じてしまう。
事実
スピリチュアルという概念は比較的現代で使われはじめたものだが、その言葉はなくてもスピに匹敵する同様なものは昔から存在した。
占いや伝説および”まじないな”ども同様だろう。
人類はその発祥とともに、何か素晴らしいものが宇宙には存在するという期待感を常に持ち合わせているのだ。
したがって、スピが特別現代において発生した事象というわけではない。
宗教と同じだけの歴史があるのだ。
ただし、時代とともに時代を背景とした流行りや廃れによる表向きの顔は様々に変遷している。
例えば、中世は妖精やもののけなどの目撃例が多かったが、今はUFOやエイリアンの目撃例や話題は多々あるが、妖精を見たとかコンタクトした(話しをした)という話は全く聞かなくなったように。
仮説
人類は、種全体で何かとてつもない記憶喪失によって想像を超えた超越的な存在を忘れ去っているのかも知れない。
しかし、記憶喪失とはいっても完全に忘却したものではなく何か、何かわからないがその存在への望郷の念が人類共通の思いとしてくすぶっているとしたら・・・。
悲しいかなそれは決して思い出すことができないため、永遠にスピの蒙昧を彷徨うのが私たちがスピを求める原動力だとしたら・・・。
そうゆう意味では、スピそのものに価値は無いかも知れないが、私たちにはもしかすると本当の真理を忘れているだけであって、想像を超えた何か偉大なものが実存するのかも知れない。
そうしたものを体験というか体得した偉人がゴーダマ仏陀のような聖者たちなのではないか。
彼らのいう、彼岸は本当に実在するのだとしたら、何か希望めいたものを感じることができるのだ。
そして、それを求める私たちの動機は大変貴重なものなのかも知れない。
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