概要
一般的にスピリチュアルが公に言うことは、精神や心を清らかにして欲望や恨みごとから離れようという趣旨だが、これは真実を言っていない。
意外にも、スピは人の欲望を掻き立て満たそうとする方法論そのものだと言える。
その理由を述べる。
現状
スピを求める動悸は簡単にいえば幸せになりたい!ためだ。(これは逆に現在幸せでないことを意味する)
では幸せとは何だろう?私たちが考えるものはおよそ以下のようなものだ
- お金
- 健康
- 幸せな結婚や家族を持つ
- 生きがいのある仕事
- やすらぎ
などだ。
お金は欲望の対象ではないかとも言えるが、まさか健康や家族、やりがい、やすらぎを欲望と言えるのか?
と意外に思うことだろう。
しかし、これも立派な欲望なのである。
欲望の定義は、「今は足りない、もっと欲しい」というものだ。
お金はいくらあれば足りるのか?限度がないことは誰もが分かる。だからお金を求めるのは欲望だと思う。
では健康はどうだろうか?
実は健康もどのようになれば健康なのか?という明確な状態はない。
プロスポーツ選手は一般人の体力では満足しないだろう。
逆に下半身が麻痺している人は歩けることが夢になる。
肉体を持つ限りどんな人にもどこか調子や具合の悪いところはある。だから健康を求めることも欲望なのだ。
仕事ややすらぎにしても同じだ。性格によって、立場によって、価値観によってだれでも足りない状況になり得るのだ。
結局、現状がどうであれば足りることはないから、人生は全て欲望だとも言える。
事実
スピに引き寄せというものがあるが、誰もがまずお金を引き寄せたいと思うだろう。
まさに、欲望を餌にそれを叶えようとする詐欺なのである(なぜなら欲望は絶対に満たされることがないから)
また、健康になるというスピも多いが、スピで本当に健康になった、もう十分満足だと思える人は実はいるようでほとんどいない。いたとすればそれは健康という欲望を捨てた人だろう。
スピは実は精神的な向上や本当のやすらぎを与えるものではなく、単に人の欲望を煽ってとりこむ詐欺商売に近いものなのだ。
仮説
スピは、できもしないことを約束する詐欺的ビジネスである。
しかし、人生が欲望から成り立っている以上、スピにハマる人、彷徨う人にも十分責任はある。
スピの供給者もそれを求める私たちも同じ同罪なのである。
だから、スピにはまって(だまされて)後悔している人は、被害者でもあるが自業自得なのである。
では、本当の、真実のスピはあり得ないのか?
これはむずかしい問題であり、厳しい現実だと言える。
結局人生は苦である(ゴーダマ仏陀が喝破した真実)以上、現代においてスピだけでなく宗教も含め人を本当に導く真のものは失われているのだ。
だから、太古の歴史より人は殺し合い、奪い合い、人を支配する歴史を繰り返してきた。
今のコロナ禍もその一環であることは想像にかたくない。
私たちがせめてできることは、日常の平凡な生活を坦々と過ごし、まやかしのスピや宗教には興味を持たないことだろう。
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