概要
皆さんには当たり前だと思うが、だれもが自分という意識を中心に世界を認識している。
周りには家族をはじめ、友人たちがいる。
動物や鳥たち、植物や虫たちも同じの同じ時間と空間にいる。
そして私は人間である。
私は、このことがなぜか不思議でたまらない。
その理由を書かせてもらいたい。
※頭がイっちゃったような内容で申し訳ないが大丈夫だから安心して読んでね(笑)
現状
この世の現実は、意識によって認識するため人それぞれ自分が世界の中心にいると感じることに異論はないだろう。
だとすれば、目のまえにいるポチ(犬)も犬から世界を認識しているはずだ。
そうすると、「ああ、自分はつくづく人間でよかった、幸せ!」だと思うのだ。
やはり、自分が犬だと嫌だからだ。ましてや虫や植物などもってのほかである。
しかし、回りを見渡すと無限ともいえる生じ物たちが存在しており、それぞれが自分を中心に世界を認識しているのかも知れないのだ。
無限に近い数の生物が生きている今の瞬間に自分が人間であることの奇跡を感じるのだ。
それぞれの生き物たちはそれで幸せなのだろうか?
おそらく、不幸は感じていない(笑)とは思う。というか感じることが出来ないのかも知れない。
しかし、私から見ればあきらかに人より不自由で残酷な境遇の生き物であることに変わりはない。
彼らは、いずれ進化して人になるのだろうか?
そうだとしても、なぜ同じ時間と空間に、人とそれ以外の生き物という差が生じているのか・・・
なぜ、私は人でありポチではないのだろうか?
・・・
・・・
このような、疑問が次から次へと生じるのである。
事実
本記事のテーマに事実もクソもないのである。
宗教も、スピもだれも教えてくれない(もしかしたら、教えているものがあって知らないだけかもしれないが・・・)
自分の周りにあらゆる生き物の生死があり、宇宙が存在するのだという事実だけだ。
仮説
認識する世界は実は自分が作り上げた仮想世界ではないか?という説がある。
少しニュアンスは異なるが映画「マトリックス」の仮想世界に近い。
ヨーガでは、寝ているとき現実を意識しない。目覚めたときに日常の世界を認識するだろう。
だから意識がないときは世界も無いのと同じだという。
よく似た話で、量子力学で観測したときに物体は実体を表すというボーアの理論に対して、アインシュタインが私がいなくても月は存在すると反論したエピソードがある。
つまり、ヨーガの思想は量子力学の考え方に近いのだ。意識が認識するときに世界を幻想として作り出されているものだと。
到底信じられない話だが、もし現実の世界が自分の幻想であるならば、自分以外の生き物(他人も含め)同情する必要はないのかも知れない。幻なのだから。
自分が寝ているときでも現実があると思うのは連続した記憶が生み出す錯覚なのかも知れない。
この手のテーマをやさしく解説してくれる宗教家やスピリチャーっていないよねぇ。
まあ、無理な注文だよね(笑)
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