人の本質に関心を持つことは大事なこと

概要

本ブログはスピリチュアルからオサラバしようという趣旨のものだが、その最大の理由は現在のスピリチュアルに本物がないからだ。

だから、本ブログは決して唯物論を肯定したり、勧めたりするつもりは全くないことをあらためて述べておきたい。

むしろ、人とは、人生とは何なのか?何のために人は生まれ、苦しみ、楽しみ、時には病気をし、老いて、死んでいくのか?

というゴーダマ仏陀が説く生老病死について私たちも関心を持つべきであり、そうすることでいつか本当のことがわかるのではないかという希望を捨てないことは、人生で大事なことだと言いたいのだ。

現状

一般的な人生の流れはこんなものだろう(以下)

子供の頃は親が全てであり、親次第で幸不幸が決まるが、人生の幸不幸を感じるほどの意識は成熟していないため無我夢中の内に時が流れる。

青年期は、恋愛や結婚など異性への目覚めや社会の新しいものとの出会いが多くあり新鮮な時代だ。体力も問題がないのでそれなりに充実している。人によるが最も敏感に人生を楽しく、または苦しく感じる時期である。

成人してからの社会の現役時代は仕事や家庭、子育てなどで無我夢中の毎日を送っているうちに、あっと言う間に何十年も過ぎてしまう。

現役を退き、子供も独立したときには老いが知らぬ間に忍び寄ってきていたことに気付く。

老いとともに第二の人生を目指して再出発をする。

やがて、死を迎える。

事実

誰もが、基本的に健康と経済的に恵まれ、平均寿命まで生きれば幸せだと無意識に思っている。

そしてその条件を全て満たされた人生を送る人もいるだろうが、それはごくごく稀な人ではないだろうか。

どんな人生も、大小はあるが苦楽が交互にやってくる人生だと思う。

そうしてみると、ゴーダマ仏陀が喝破したようにそもそもこの世に生まれてくること自体が苦の原因だということになる。

しかし、なぜ私たちは生まれてくるのか?また、子孫を残そうとするのか?

このような根本的な問いに現代のスピリチュアルはもちろん答えてくれない。スピはこの世の目先の幸せを求めることしか眼中にないのである。

仮説

「人はどこから来てどこへ行くのか?」

宗教でも、宇宙論の中でもよく言われる永遠のテーマである。

このテーマそのものは、まだ核心的なものではないが、少なくとも何か私たちの核心から生まれてくる疑問に思えてならない。

だからこそ、答えを得ることはほぼ不可能な時代だが、人とは、人生とは何かを模索することはやはり大事なことだと思うのである。

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