概要
予言は、未来予知の視点では様々な矛盾があることを紹介した(「予言の矛盾」参照)
では予言は、未来予知ではなく別のものだと仮定するとどうなのか?
人類歴史の長きにわたって聖典の予言からはじまり、現代も様々な予言が存在する事実には何か意味があるはず。
先に仮説を述べると、予言は”人類への暗示“と定義する方が馴染むように感じる。
”暗示”の意味は、大きく2つある
- それとはなしに知らせること
- 人の心に観念を無意識に与えること
上記2つの意味と予言との親和性について考察してみる。
現状
予言の2つの特徴(以下)は、まさに「それとはなしに知らせること」に該当する。
- 5W1Hが明確でない
- 起こることが抽象的に表現される
何となくぼんやりしたイベントや災いがいつかやってくるという予言は暗示そのものだ。
次に、人類に暗示をかけて何かいいことはあるのだろうか?
もしかすると、決定論予言には特に意味があるかも知れない。
つまり、起きることが決まっていることを前提とする予言は、前もって人類に暗示を与えて、歴史を予言の方向に誘導する効果を高めるというものである。
事実
予言内容は暗示的だ。だから、いつ何が起こるのか多くの研究者が5W1Hを明確にする努力をしている。
もし予言が暗示であれば、むしろ5W1Hは明確にしてはいけないのだ。
予言者は暗示を与えるということであれば今まで通りの記録や表現で問題ないのだ。
決定論予言を信望している人達の中には、実際に予言通りに歴史を進めようとする人達がごく一部に存在することも事実である。
もちろん、ほとんどの人は行動には移さないが、予言を繰り返しインプットされると無意識に未来はいつか予言通りになるのかなぁと刷り込まれてしまう。
仮説
予言が暗示であれば我々は予言は未来予知という認識を改めなければならない。
予言者は、未来を予言していたわけではなく暗示しているに過ぎないのではないだろうか。
であるならは、なぜ予言通りに人類を誘導しようとするのかの本当の理由(深そうではある)はわからない。
これが、私の予言に対する最終的な仮説である。決して未来予知ではない。
予言者は、暗示によって人類を予言通りに誘導しているだけであって、未来予知を分析したり、当たる当たらないなどという評価を下していた私たちが筋違いなのかも知れない。
では私たちは現実にある(まじめな)予言をどうとらえるべきか?
もちろん、予言という暗示を受け入れる(信じる)/受け入れない(信じない)は自由だ。
私は、予言の片棒を担ぎたくないので予言の暗示は拒否、あるいは無視をする。
コメント
[…] 予言は、未来予知ではなく、暗示なのである。(「予言の目的は暗示」参照) […]